福島へ

11日午後発生した巨大地震。
当日は実態がよく分からないまま通常の活動を続け、ご挨拶などをしておりました。

次第に実態が報道されるようになり、挨拶先では防災対策論議になったりしましたが、なかには「うちは家族が仙台にいる。それどころじゃない」と言われることも。

たしかに、事務所に戻ってニュースなど確認すると相当ひどい。これは通常活動は中断することに。

そして翌12日、スタッフの実家がある郡山やいわき市などを含め、救援物資を載せて現地を訪れることに。支援者からいただいた大量のお菓子や即席めん、おもちなども、この未曾有の大惨事に、スタッフ一同「俺の腹より被災者に」ということで、残った量の大半を持ち込むことにしました。中山の選挙準備のために寄付を寄せていただいた支援者の皆様も納得してくれると思います。

高速道が途中で通行止めになっているので、下道を進み、まず郡山へ。連絡が取りにくい状況でしたがスタッフの両親とも元気なのを確認。街中にはガラスや壁が割れたり崩れたりした建物も。ガソリンスタンドでは給油制限があり、かろうじて間に合いました。

そしてさらに太平洋側へと進み、小名浜地域へ。

港とその付近の町並みの写真です。被害の甚大さがわかります。

高台のお寺が避難所になっていて、訪問して食糧など救援物資をお渡しできました。みなさんまだショックからさめやらない感じ。断水のため不便しているとの事で、持参した水タンクもタンクごと差し上げて来ました。感謝いただき、少しばかりですが役に立つことができたと思います。

↑水・食糧などを差し入れ

各地の避難所で不足している物資があります。津波から逃げた人たちは、濡れたままで着替えもないという状況も聞きました。ライフラインも寸断されているので、食糧、水、暖房、カセットコンロ、着替えなど、現地の状況をつかみながら、これまでの震災で重ねられた経験や教訓も活かした支援が重要になります。私も自分の技能を活かし、以前の震災と同様、必要があれば医療ボランティアにも関わりたいと思っています。

新潟市からは、消防や医療スタッフの派遣など支援活動がおこなわれています。避難された人々への市営住宅の空き部屋の提供も準備されています。また、市内には転居し放置された空き家が各所に見られますが、なんとかこれらを活用する方策も望まれます。批判のあった「銭湯への入浴券」も、被災者に向けても発行することも考えるべきかもしれません。

新潟市でも「震災に強い街」を目指し、災害対策の強化はもちろんですが、それだけでなく、日常から高齢者や弱者を支える仕組みの強化も重要です。災害時の医療サービスも、自分自身が関わった経験で言うと、実は日常的な地域医療のあり方を見直すきっかけにもなります。必要な人に必要なものを確実に届ける-被災地で求められている仕組みは、福祉や医療など、「平時」においても「政治」が果たすべき役割にも通じます。その意味でも、天災は避け難いものですが、だからこそ、平時から「心豊かに安心して暮らせる社会」に向けて、新潟の市政と議会を建て直すことが重要だと確信します。

さらに、福島原発は、今もなお制御不能な状態が続き、チェルノブイリに続く最悪の事態になっています。私は学生時代から原発建設に反対する市民運動に関わり、一方、放射線医学の専門家のひとりでもあります。右肩あがりの経済発展を期待して、大量のエネルギーを首都圏で消費するため「地震列島日本」の危険性を無視して首都圏以外の地域で強権的に建設が進められてきた原子力行政を含め、日本の政治・社会・経済のあり方の根本的な転換こそが必要であることを、強く訴えたいと思います。

旧ブログからの転載記事です。